物の表面に紙をあて、鉛筆などで表面の凹凸を写し取るフロッタージュ。美術家・岡部昌生は、この技法を用いて、世界各国の路上や建造物内で、その場所の記憶や歴史を紙に写し取り、作品として発表しています。戦後70年を迎え、岡部のこれまでの活動を紹介する個展「被爆樹に触れて」が、全国5都市の会場を巡回し、最後の会場であるトキアートギャラリー(東京)で、11月30日〜12月5日の期間、開催されました。岡部に制作の背景を聞きました。
広島の記憶と歴史を写し取る
──まずは、ライフワークであるフロッタージュの制作、広島での制作について聞かせてください。
フロッタージュの技法を用い出したのは1977年のことです。最初はパリの街なかで、建物や道路をフロッタージュしました。人々の生活に密着した、文化の染み付いたものに興味があったんです。フロッタージュは、都市の中の記憶を美術で探り、記録する手段でした。
そうやって作品を発表していたところ、広島市現代美術館の開館に際し、制作の要請がありました。2年間にわたり、広島の街の7カ所の場所でフロッタージュを行いました。広島は、50センチ掘り下げれば戦時中の街並みが残っています。フロッタージュによって、その地の被爆の記憶を擦りとってきました。

また、1996年には「51年目のヒロシマ」というテーマで、過去の戦争において多くの兵士が出港した宇品港(現在の広島港)の歴史にも触れました。悲劇の舞台としての広島だけでなく、軍都としての広島の側面を作品によって提示し、なぜ広島が原爆投下の標的とされたか、「加害と被害」を考えることが、戦後51年目の課題ではないかと思ったからです。
──そうした活動を経て、2007年にはヴェネチア・ビエンナーレに日本館の代表として作品を発表されていらっしゃいますね。
広島で制作した作品1500点をヴェネチア・ビエンナーレに持っていきました。その年は、ヴェネチア・ビエンナーレの他に、ドクメンタ(ドイツ)、ミュンスター彫刻プロジェクト(カッセル、ドイツ)、リヨン・ビエンナーレ(フランス)といったように、ヨーロッパで国際展の開催が集中する年でした。多くの人に作品を通して、ヒロシマの歴史を知ってもらうことができました。そのときの来場者との出会いによって、その後の制作や発表の場が世界各国に拡がりました。私にとっても大きなステージでしたね。
「被爆樹に触れて」というテーマに取り組んだのも、このヴェネチア・ビエンナーレでの出会いがきっかけでした。初日の会場に、日本館コミッショナーの港千尋さんの紹介で、旧ユーゴスラビア出身の全盲の写真家、ユジェン・バフチャルが訪れたんです。会場には被爆した石のフロッタージュと、実際の石を展示し、また会場では毎日、フロッタージュのワークショップを開催しました。実際の石に触れる体験、石を擦る音を聞くことで、地雷によって視覚を失ったバフチャルの中で、いろいろなものが想起されたのだと思います。彼は、私に被爆樹のフロッタージュの制作を勧めてくれました。
──そのときから今日に至るまで、「被爆樹」というテーマに取り組んでこられたんですね。
被爆樹とは、爆心地からおよそ2キロメートル圏内で被爆し、その後ふたたび芽吹いた樹木。広島市が認定し、広島の人たちはこの被爆樹を大切にしています。原爆投下後、75年間は草木が生えないと言われた広島で、生命力の象徴のような被爆樹の存在は、多くの市民を励ましてきました。

また2011年の東日本大震災では、思わぬかたちで新たな被曝樹が誕生してしまいました。福島の樹木は、4年経った今もなお、高濃度の放射能にさらされ続けています。私は、広島の被爆樹に対して、福島の「被曝つづける樹」のフロッタージュを行っています。この制作に協力してくれた方々に応えたいという思いもあり、被爆70年という節目に、全国を縦断するかたちでの個展開催を決めました。
個展は、広島、沖縄、名古屋、福島、札幌と巡って、最後がこの東京会場です。この巡回中にもフロッタージュの作品は増え、さまざまなかたちで派生していきました。沖縄には今回初めて訪れましたが、以前から訪れねばならない場所だと思っていました。沖縄の過去の歴史、そして現在の問題について、美術を通じて人々と対話する必要があると思います。

今回の巡回展を契機に、今後は沖縄での制作活動も展開していきたい。この会場では入って正面の黒い作品が、沖縄・伊江島の米軍による被弾痕が刻まれた建物のフロッタージュです。
フロッタージュの旅─あいちトリエンナーレへ向けて
──6都市を巡回してのご感想をうかがえますか?
この巡回展を通じて、会場となった6都市をつなげる新しいアートのネットワークをつくりたいという思いがあります。さらに来年にはヴェネチアでも一緒だった港さんが芸術監督を務める「あいちトリエンナーレ」への参加が決まっているのですが、来年度のテーマは「虹のキャラヴァンサライ 創造する人間の旅」。それぞれが旅をしながら、その土地固有の文化や人に出会いながら、祝祭的な空間をつくるというのがコンセプトです。
今回の巡回は、来年に向けた自分自身の旅でもありました。移動しながら、ものをつくり続け、ものをつくりながら、対話を続けていく。そして、来年の「あいち」では、人と人とのつながりを作品とし、参加することになると思います。
広島の人々は、もっと早くに広島の問題を取り上げてほしかっただろうと思います。けれど、私のような美術家がこうして作品制作を続けてきて、戦後70年という節目の今年は、次のステップになる起点の年になったのではないかと思います。
来年の「あいちトリエンナーレ」には、もっと多様な人たちが、それぞれの背負った歴史や文化を携え集まってきます。そこで人々が出会うことで祝祭的な空間が生まれるでしょうし、新しい未知の価値に触れる機会にもなるでしょう。アートがそういう役割を担いながら、社会に根付くといいなと思ってます。

──最後に福島で制作された作品について、制作時のエピソードなどをうかがえますか。
福島の被曝樹のフロッタージュには、そのときその場所の放射線量を書き込んでいます。制作中、私は防護服を着ていますが、樹木は声を発することなく、ずっとその場所で目に見えない放射能を浴び続けているんです。今回、会場の床に切り株の断面のフロッタージュを展示していますが、これはその集落の神社のご神木だった樹木です。除染作業のために、その土地の人々のコミュニティの中心であり拠り所であったものがなくなってしまう。そんなことがいま、福島では進行しているんです。あるお宅では、大切に育ててきた160本の屋敷林(イグネ)が、除染のために伐採されました。できれば160本の切り株すべて、フロッタージュで残してあげたいと思っています。
フロッタージュは、非常に原初的というか、手で触れるという身体行為を伴う美術表現です。人間の手が介在して、場所のできごとや歴史をうつしかえる行為。写真や版画に似ている点もありますが、そのものに触れた実物大の姿であるぶん、無骨だけれど生々しく伝わるものがあります。樹木や建物は移動することができないけれど、美術家はそこを訪れ、別の場所に持っていくことができます。戦後70年を経て、広島の過去を忘れないために、そして現在進行形の福島のことを伝えたいという思いを込めて、活動を続けています。
会場:TOKI Art Space
住所:東京都渋谷区神宮前3-42-5 サイオンビル
電話番号:03-3479-0332
開廊時間:11:30〜19:00
休館日:会期中無休
URL:http://homepage2.nifty.com/tokiart/